暑い夏の夜、那覇の久米地区には、セミの鳴き声に交じって板に拳を打ち付ける音が響いていた。揃って踏み込む力強い足音や威勢のいい掛け声が近隣に響く。ここは明武館本部道場。沖縄の各地にある他の空手道場と同様に、沖縄独自の文化が守り伝えられている場所だ。
道場の片隅に座っているのは八木明哲、剛柔流空手の師範である。6歳から空手を学び、16歳で空手と柔道の初段を取得する。明哲も他の沖縄空手の師範たちと同じように、日々の仕事に就きながら、空手の修行を続けてきた。しかしながら、彼の真の情熱は空手に注がれ、空手こそが天職だった。60歳で定年退職するまで高校の英語教師を務めた明哲は、自分の人生を占める2つの側面である教育と空手の修行は密接に結びついていると感じている。「教育と武道の目指すところは同じです。それは、世の中に貢献できるような素晴らしい人物になることなのです」と言う。
息子の八木一平は、力強くたくましい男だ。部屋の前方に立ち、つま先で木の床をとらえ、腰をひねり、腕と拳に力を込め、見えない敵と対峙する。全沖縄空手道選手権大会の組手部門のチャンピオンだった一平は、派手な蹴りや素早い一撃ではなく、パワフルでタイミングのよい打撃を得意としていた。現在は、祖父の故八木明徳が創設した剛柔流空手明武館に加盟する多くの道場を統括する父の後継者として、忙しい日々を送っている。1997年に沖縄県指定無形文化財「沖縄の空手・古武術」保持者となった明徳は、伝説的な剛柔流の祖と呼ばれる宮城長順より、すべての基本的な12の型を学んだといわれている。
2016年の「空手の日」には、ギネス記録樹立のために、那覇の 国際通りに約4000人の参加者が集まり型を演じた。
宮城は中国福建省福州市で腕を磨いた後、沖縄に戻り、中国で学んだ武術を那覇手の知識に加え、剛と柔を併せ持つという意味を込めた剛柔流を創設した。明武館本部道場は、姉妹都市である福州市と那覇とのつながりを称える伝統的な中国庭園スタイルの福州園のすぐ近くにある。
琉球王国が日本に併合されて沖縄県となった後、日本の政治家たちは、沖縄の武術に目をつけた。そして、教育制度にその厳しい鍛錬と規律を組み込めば、社会に役立つものと考えたのだ。空手はもともと中国の手を意味する「唐手」と表記されていた。しかし、沖縄の空手家たちは、空手が中国を越えて進化を遂げたことを讃え、その武器を使わない(空の手という)特質を振興するために、1936年から「空手」と表記するようになった。
沖縄空手案内センターのミゲール・ダルーズ代表は、「剛柔流の空手は、陰と陽のように、直線的な打撃技と柔らかく円を描く動きを組み合わせた独特の様式です。どちらも欠かせないものであり、必要に応じて、その各々を調整してバランスを取らねばなりません」と語る。
非暴力と他者への尊重という姿勢、それが空手の 真髄なのです。
ミ ゲ ー ル ・ ダ ル ー ズ 、沖 縄 空 手 案 内 セ ン タ ー
一平が夜のクラスで、若い生徒たちを柔和ながらも厳格な規律のもと、指導している。そこには、明らかに剛柔流の剛と柔のより深い意味が込められている。「人は強くなればなるほど、その心はより優しく、思いやりがあり、謙虚であるべきです。空手は武器のようなものです。しかしながら、生徒たちには、単に武器を与えるのではなく、正しい心の持ち方を教えなければなりません。技術だけを教えて、その背後にある哲学を教えないのは危険なことです」と一平は言う。
ハレクラニ沖縄から宿泊客に空手のクラスを教えて欲しいと打診されたとき、一平は喜んだ。なぜなら、同ホテルが戦いの技術を教えることよりも、空手の背景にある哲学を広めることに関心を持っていると知ったからだ。「大切なのは、体を鍛え、技を磨き、心を育成すること。相手を打ちのめすことではありません。私に、空手の哲学に焦点を当てるように求めた唯一のホテルがハレクラニだったのです」
ダルーズが言うように、空手は単なる武道ではなく、生き方そのものなのだ。「非暴力と他者への尊重という姿勢が、空手の真髄です」と彼は言う。「本当の空手とは、まさにそれなのです。」
一平の長男である八木竜平が、同年代の仲間と一緒に道場の中央に立っている。一糸乱れず動きながら型を演じ、その気合は熱気を突きぬけていく。兄弟や従兄弟と同じくして、竜平も幼い頃から稽古を積み重ねた。鋭く正確な動き、凛としたまなざしは鍛錬の成果だ。しかし、一平が最も鍛えたいのは自身の精神だという。「一番嬉しいのは、私の生徒が立派な人間であると人から言われることです。それこそが私たちの道場の哲学ですから」と語る。