青の中へ

過去を敬い新しいものを生み出す 3代目染色職人が守る家族の伝統

文:
ダレン・ゴア
写真:
千田拓真、ジェラドー ・エモルア
訳:
チング毛利明子

沖縄本島の西海岸、東シナ海を臨む本部町にある家族のアトリエで、真栄城興和は織機に向かっていた。とりわけ湿度が高いことで知られる本部町地区は、琉球藍染の原料となる藍の産地である。

真栄城は長年絣織りに打ち込み、緻密な技術を培ってきた。隣り合う部分を着色しない防染技法によって、琉球藍で丹念に染めた繊細な糸を使って精緻に仕上げていく。その糸を手動の織機に通すと、縞模様や幾何学的な形、自然から着想を得たモチーフなどが、布に浮かび上がってくる。それらはすべて、沖縄の青い海と空への賛歌だ。

真栄城の家族は、工芸とのつながりが深い。第二次世界大戦後、父方の祖父である真栄城興盛は、琉球藍染と絣織り(あわせて「染織」として知られる)を復興させた重要な人物だった。彼は伝統的な琉球文様を大切にしながらも、独自のデザインを考案し、他の絣と区別するために「琉球美絣」と名付けた。

その複雑な表現形式の工芸は、幼少期の真栄城にとっては不思議なものだった。「周囲の環境に気づいた当初から、父は藍染めをしていて、母は機織りをしていました。しかしながら、子どもの頃は、吊るされている糸がとても繊細なものだったため、アトリエに入ることは許されず、家業を十分に理解することはできていませんでした」と言う。

発 酵 の 力 に よ り 、琉 球 藍 の 色鮮やかな青の色調が生み 出される。

真栄城興和にとっての藍染めとは、自然のリズムと調和する 作業だ。

真栄城が、家族の下で追求している天職にあらためて思いを馳せるようになったのは、家を遠く離れてからのことだった。城西国際大学で学生時代を過ごした真栄城は、当時を思い出しながら「大学時代は千葉の海岸で過ごしました。地元だけではなく全国各地でサーフィンに没頭し、日没の色や青い海など、自然の表情に出会いました。私の心の中で、サーフィンの青と琉球藍の青が交錯し重なり合ったのです」と話す。同じ沖縄出身の卒業論文の指導教官の勧めもあり、家業の琉球美絣への真栄城の関心は高まり、卒業後は家族のアトリエで、父親の真栄城興茂と共に働き始めた。

2011年、職人として独立した30歳の真栄城は、先天性の脊椎疾患を発症し、車いすでの生活を送ることになる。染色や織物の作業からも離れざるを得なくなったが、琉球美絣と皮革を融合させたブランド「BIGASURI」を立ち上げ、今まで沖縄の絣文化を知らなかった人にその文化を紹介することを目指した。

しかし、染織物に戻りたいという真栄城の思いは決して色褪せなかった。結局、6年もの長い期間の後、車いすで操作できる織機の製作を木工職人に依頼することとなった。「新しい織機での作業に慣れるにはたくさんの困難がありました。ところが、(絣の)糸を扱ううちに、その困難に立ち向かうための決意が強まっていったのです」と話す。

車椅子生活を余儀なくされた が真栄城は家業を受け継ぐこ とを 決 心 して い た 。

真栄城は高い志と共に織機のもとに戻った。「何か新しい目標が必要でした。そこで、アートの世界でナンバーワンの都市、ニューヨークでの作品展示を目標にしました」。それから4年後の2021年、マンハッタンのニューヨーク天理ギャラリーで「沖縄ブルース」と題した個展を開いた。

この個展のために、彼は伝統的な琉球絣の要素に現代的な解釈を加えた絣ストールを制作した。「Three Little Birds」と題されたこのストールは、藍色のグラデーションで描かれた縞模様の上を三羽の鳥が飛んでいる。「方言でトゥイグヮーと呼ばれるこのモチーフは、沖縄の伝統的なデザインです。作品名の由来となったボブ・マーリーの曲へのオマージュとして、この3羽の鳥を使いました。父や祖父が創り出した琉球美絣を忠実に再現しながらも、他では見ることのできない、時代に合った柄を開発することが私の使命だと思っています」

サーファーとして魅了された藍色の波に乗ることはもうないものの、真栄城は今もサーフカルチャーや海からインスピレーションを受け続けている。そして、サーフボードのフィンやうねりといったビジュアルを用いて、伝統的な琉球文様に新しい息吹を吹き込む。「今はサーフィンには行けませんが、絣の糸を染めていると、一日を通して変化する海や空の色合いが、自分の色見本になっているように思います。私が布で表現したいのは、まさにこういった色なのです」と語る。