曇り空の南城の朝、低く垂れこめた雲から細かな霧雨がしとしとと降りそそぐ。シェフの日向紀彦は、細長い漁船がぷつぷつとエンジン音を響かせながら海野漁港の岸へ向かう様子を見つめている。船が接岸すると、彼は船員たちと気さくに言葉を交わす。その傍らでは、港の作業員たちが水揚げされた魚を洗い、仕分けし、もうすぐ始まる競りの準備を進めている。
日向さんは、セメントの床に並べられた氷詰めトレイの間をゆったりと歩きながら、整然と並ぶ魚を丹念に見て回る。甲高い笛の音が鳴り響くと、競り人を囲んでいる買い手たちの輪に彼も加わる。競り人の帽子や制服には、知念漁業協同組合のロゴが刺繍されている。競りが始まると、競り人は、一つひとつのトレイを指差しながら、独特のキビキビとした口調で価格を唱えていく。
競り人が、三尾の大ぶりのコバンザメが並ぶトレイの競りを始めると、日向さんは迷うことなく札を投げ入れた。その日の午後、自分のレストラン「Be Natural」で出す料理に使うつもりだ。入札は彼一人のみだった。競りが終了すると、日向さんは感謝の気持ちを込めて一礼し、戦利品のコバンザメを受け取った。
日向さんは20年以上にわたり、毎朝この海野港の競りに通っている。2000年に「Be Natural」を開店して以来、魚のみならず、あらゆる食材選びにおける確かな目利きが評判を呼び、常連客がレストランに足を運んでいる。傑出した料理と抜群の鮮度、伝統を大切にしながらも柔軟に新しい感性を取り入れるスタイルが店の人気を支えているのだ。(レストランは予約制で、ベジタリアン対応はしていない)
漁師たちや港の作業員、そして競りに参加していた顔馴染みに軽く手を振りながら、日向さんは駐車場を後にした。細い舗装道路の両脇には、立派なフクギの木々が立ち並ぶ。国道331号線を西へと車を走らせ、ほどなくすると縦横20メートルほどの小さなハーブ園にたどり着いた。ここで、彼はレモングラスやペパーミントそしてバジルを収穫する。それは、「Be Natural」で出すフランスやイタリアのエッセンスを織り交ぜた料理に欠かせない。漁港から数キロ西に位置するそのハーブ園は、彼の妻の家族のもので、家庭菜園として使われている。
「国澤さんのような農家と一緒に仕事をすることで私の料理の幅もぐっと広がるのです」
日向紀彦、シェフ
この小さな畑からの恵みは、日向さんの進化し続ける食材の土台を支えている。その根底には、それぞれの季節ならではの食材を中心に、地域の生産者や地元の農園、近隣のファーマーズマーケットから厳選した素材を自分の料理に取り入れるという彼の姿勢がある。それは、日向さんが地元の農家や漁師と築いてきた信頼関係であり、同時に沖縄という土地の食文化が持つ力強さ、逞しさ、そして自立精神を映し出している。
「牛乳は、ここ南城市にある玉城牧場の牛乳を使っています」と、日向さんは語る。「卵は宮城農場のものを、肉類は島内各地の小規模生産者による肉から厳選したものを使っています」
レストランに戻る前、日向さんが最後に立ち寄ったのは、森の急な斜面の麓にある温室だ。雨脚は強まり、遠くの山々は灰色の濃い霧に包まれている。車を降りた日向さんは軽く伸びをした後、入口近くに置かれた細長い素焼きの鉢に身をかがめ、ローズマリーの新鮮な葉を摘み取る。このハーブは、レストランの名物であるフォカッチャに香りを添えるものだ。
温室の入り口で日向さんを迎えたのは、74歳の国澤孝夫さんだ。国澤さんは、「Be Natural」の契約農家で、色鮮やかな食用花やマイクログリーンを栽培している。国澤さんは日向さんのためにドアを開け、ベビーリーフを栽培しているトレイにかけられた防虫ネットを持ち上げた。
「この小松菜を加えると、サラダにパリッとした食感が出るんですよ」と言いながら、日向さんはプランターから小松菜の葉を摘み取り、大きなボウルにそっと入れていく。「でも、暑さと湿気で小松菜は夏には育たないんです」と国澤さん。「だからこそ、日向さんのように食材の旬に合わせて料理を考えてくれるシェフがとてもありがたいのです」
日向さんが次に向かったのは、温室の中央で咲き誇るペチュニアの苗床だった。その王冠のような花は、レストランのコース料理で出すサラダやデザートに鮮やかな彩りを添える。「こういう花を商業ベースの生産者から仕入れるのは、コスト的に無理なんです」と日向さんは語る。「国澤さんのような農家と協力することで、私の料理の幅もぐっと広がるのです」
昼どきになると、レストランは時を重ねてきた場所ならではの温もりと魅力に包まれる。人里離れた丘の中腹にひっそりと佇み、紫陽花の茂みに囲まれて、まるで風景の一部になったかのように溶け込んでいる。日向さんのこだわりと季節の恵みが随所に息づいたダイニングルームとオープンキッチンには静けさと個性が満ち、豊かで変化に富んだ空間が広がっている。
コバンザメは、彩り豊かな刺身サラダとなって登場する。国澤さんの温室で育まれたマイクログリーンとペチュニアがあしらわれ、地元産のキュウリとパパイヤを用いたソースが繊細な味わいを引き立てる。飲み物には自家栽培のハーブが香りを添えている。食後のデザートは、沖縄の農家の牛乳と卵で作った繊細な味わいのプリンと紅芋パウダーを散らしたレモングラスのアイスクリーム。家庭菜園で育てたレモングラスの風味がやさしく香る一品だ。食事と同じように、デザートにもこの土地の恵みが息づいていて、爽やかで瑞々しく、生き生きとした味わいが広がる。
日向さんが手掛ける料理を食することは、単なるグルメ体験にはとどまらない。一皿一皿には、季節のうつろいと、海で魚を獲る人、土地を耕す人、山野に分け入って食材を探す人の手仕事への静かな賛辞に満ちている。そこでは、シェフは素材の魅力を見極め、案内する役目を担う。彼は知っているのだ。味わいの本質は、大地や海、そして皿の上に広がるすべての食材が秘めている物語から生まれるということを。