「荒廃した道」という意味のハワイ火山国立公園内にある「デバステーション・トレイル」は、溶岩流が森を飲み込み、緑の大地を黒一色に染め上げた風景から名付けられた。1959年に噴火したハワイ島のキラウエア・イキ火口は、37日間にわたり火山灰を吐き続け、一帯に溶岩を撒き散らし、空洞だった火口はドロドロに溶けた灼熱の湖に変貌したという。
噴火活動が収まると、そこにはほとんど何も残されていなかった。かろうじて倒壊を免れた数本の木も、噴石や飛散物によって枝や葉が剥ぎ取られている。荒涼とした景色の中、それはまるで骸骨のように白く浮かび上がって見える。幹に含まれる水分により、溶岩流に飲み込まれてもすぐに焼け落ちなかった木々は、「溶岩樹」と呼ばれる中が空洞で直立した石の彫刻のような奇岩を遺した。
陶芸家のトシコ・タカエズが、独自のデバステーション・トレイルの制作を開始したのは1970年代のことだった。荒れ果てた道からインスピレーションを得たタカエズは、厚い粘土板を成形して、最大約2.4メートル以上にもなる、中が空洞の巨大な円筒を創り始めた。《オーメージ・トゥ・デバステーション・フォレスト:ツリー・マン・フォレスト(荒廃した森へのオマージュ:樹人の森)》は、釉薬をかけて月の白、黒曜石の黒、土の茶の色合いを縞状に表現した7本の木のようなフォルムが、砕石を敷いた土台の上に集合している作品だ。また、《ラヴァ・フォレスト(溶岩の森)》と題された別の作品は、黒色および黄土色に染められた男根のようなフォルムが、ヒロ国際空港のコートヤードの植栽の中に並べられている。
1922年にハワイ島のペペエケオで、沖縄移民の両親のもとに生まれたタカエズは、「自分が生まれた場所の影響を受けるというのは、真実だと思います」と、1982年に『プリンストン・アルムナイ・ウィークリー(プリンストン大学同窓会週報)』に語っている。オアフ島西部の鮮やかな海の色を明瞭に捉えた《マカハ・ブルー》、ゴールデンオレンジとソフトピンクの釉薬をかけて、マウイ島のハレアカラ山頂から昇る朝日をさりげなく表現した作品など、ハワイの島々がタカエズの作品に与えた影響が見てとれる。
タカエズは1931年に家族と共にマウイ島に移住した。18歳でオアフ島に移り、ハワイ陶芸家組合のヒュー・ガント氏とその妻リタのもとで家政婦として働き始める。そこで彼女は生涯の師となるカール・マッサ中尉に出会い、陶芸の技術を磨いた。後にハワイ大学マノア校の陶芸科に進学し、さらにホノルル・スクール・オブ・アートでデッサンのクラスを受講、大学では陶芸、デザイン、美術史、織物を学んだ。その後ハワイを離れ、米国を代表する美術大学院であるミシガン州のクランブルック芸術学院で、著名なフィンランド系アメリカ人芸術家のマイヤ・グロテル氏に師事した。
タカエズの特徴である閉じたフォルムは、色彩と抽象性を探求するためのより広いキャンバスを彼女に与えた。
「ハワイでは技術を身につけ、クランブルックでは自分自身を見つけました」とタカエズはそれぞれの場所での学びについて語っている。師であるグロテル氏から、自分自身の個性を見つけるように勧められたタカエズは、注ぎ口がいくつもある茶器や、のちに彼女の名を世に知らしめることになるクローズド・フォーム(閉じたフォルム)の初期作品をはじめ、数々の実験的な試みをおこなった。
着実に自分の個性を確立してきたタカエズだが、長い間、自身の沖縄の血とアメリカ人としてのアイデンティティの間で葛藤を感じていた。タカエズの曾姪でトシコ・タカエズ財団理事長のダーリーン・フクジさんは、タカエズには一つのアイデンティティを手に入れるためには、別のアイデンティティを手放さなければならないというプレッシャーが常に付きまとっていたと話す。1879年に琉球列島が日本に併合されると沖縄人は日本人として扱われるようになり、第二次世界大戦中はアメリカ人として扱われた。「とても複雑な問題ですが、彼女の作品にはそういった二面性が顕著に表現されています」とフクジさんは語る。
1959年、タカエズは日本の本州と沖縄に8か月間滞在し、自身の原点を振り返ると同時に、媒体としての陶芸について他の陶芸家たちと意見を交わした。そこで彼女は陶芸家の金重陶陽と出会い、あらためて濱田庄司や柳宗悦をはじめとする民藝運動の指導者たちを紹介される。民藝運動は、たとえば丼鉢のような普段使いの工芸品に至高の美を見いだそうとする生活文化運動だった。
だが、タカエズが強く心を惹かれたのは、実用性を大前提とする民藝の陶磁器とは対極にある前衛的な陶芸を創作する作家集団「走泥社」の代表である八木一夫の作品だった。機能性よりも彫刻的な芸術性を重視した彼らの作品には、日常的な花瓶や鉢に見られる穴や「口(開口部)」が存在しなかった。
走泥社から美学的影響を受けて帰国したタカエズは、実用的なカップや皿、鉢をさらに進化させたボール状の「月」ポットや、形を整え窯で焼成する前に作品の中に陶製の「ガラガラ(粘土のかけら)」を仕込み、天辺に乳首のような突起がついた開口部のない器など、彼女の最も代表的な作品をいくつか創作した。
クローズド・フォルムによって、抽象表現主義的な色彩の探求や釉薬を活用するためのより大きなキャンバスを得たタカエズは、彼女の作品の特徴の一つである「円形に描かれた絵画」を生み出した。トシコ・タカエズ財団によると、かつてタカエズは、「釉薬を絵の具にして、うまくフォルムに融合させることに成功したおかげで、絵画とフォルムの2つが一体となった作品ができあがりました」と話していたという。「このフォルム、そしてそこに絵を描くことで、ある意味、私は彫刻と絵画の世界の一員に戻れたのです」
当時の美術界で、「粘土のマドンナ」「アメリカで最も力量ある女性陶芸家」と称されていたタカエズは、それまでアメリカでは実用性のみ重視されていた陶磁器を、芸術作品へと昇華させた先駆者となった。1987年にハワイの「生きている宝」に選ばれたタカエズは、2010年には日本社会に多大な貢献をした人物に与えられる紺綬褒章を天皇陛下から授与された。表彰の理由の一つには、彼女が自身の芸術に完全に溶け込んでいたことが挙げられるだろう。1993年、自身の生い立ちについてタカエズは、「行ったり来たり、まるでピンポン玉になったような気分でした」とインタビュアーのダニエル・ベルグラッド氏に語っている。「でも、歳を取るにつれ、東洋か西洋かは関係なく、要は自分次第なのだと気づきました。両方の良いところを取り入れればいいのです」